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「水道の水のごとく」松下幸之助



「われらの経営こそ、われらの事業こそ、※某教以上に盛大な繁栄をせねばならぬ聖なる事業である。
それにもかかわらず閉鎖縮小とは何ごとだ。

それは経営が悪いからだ。

自己にとらわれたる経営、正義にはずれたる経営、聖なる事業たるの信念にめざめざる経営、
単なる商道としての経営、単なる習慣に立脚せる経営、これらがみなその原因をつくっているのだ。

自分はこの殻から脱却せねばならぬ」

そしてこの考えが強く強く私の心を打ったのであった。

しからば聖なる経営、真個の経営とはいかなるものか。
それは水道の水だ。加工されたる水道の水は価がある。

今日、価あるものはこれを盗めばとがめられるのは常識だ。


しかるに、水道の水は加工された価あるものなるにもかかわらず、
乞食が水道の栓をひねって存分にその水を盗み飲んだとしても、

水そのものについてのとがめはあまり聞かない。
これはなぜか。

それは価あるにもかかわらず、その量があまりにも豊富であるからである。

直接生命を維持する貴重な価値ある水においてすら、
その量があまりに豊富であるがゆえに許されるということはわれわれに何を教えるか。

それは生産者の使命の重大さと尊さを十二分に教えて余りあるもの、という感を受けた。
すなわち生産者の使命は貴重なる生活物資を、水道の水のごとく無尽蔵たらしめることである。

いかに貴重なるものでも量を多くして、無代に等しい価格をもって提供することにある。
かくしてこそ、貧は除かれていく。貧より生ずるあらゆる悩みは除かれていく。

生活の煩悶も極度に縮小されていく。
物資を中心とした楽園に、宗教の力による精神的安心が加わって人生は完成する。

ここだ、われわれの真の経営は。
きょう見学によって教えられた真の使命はここにあるのだ。

※天理教のこと。知人に強く勧められ、天理教の見学に行った後の松下幸之助の回想である。

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松下幸之助が水道哲学に目覚めた瞬間

 

宗教を信ずるものは自らの手足と時間を喜んでそこに捧げる

しかし、経営をして赤字を出し事業撤退することもある

この違いは何か?

 

そこに、宗教にも似た哲学が必要だと感じた

物を豊かにすることと人のこころを豊かにすること

 

物心両面での幸福が本来の人間の幸福である

経営には信念としての哲学が必要だと悟った瞬間と言える

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