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フレデリック・ウイィリアム・ランチェスター

フレデリック・ウイィリアム・ランチェスター

 

オクスフォード 国定伝記事典(2004) p377-379 [別名:ポール・ネザートン・ハリース]1868-1946)、自動車と航空機の設計者兼技術者。18681023日、ロンドン、ルイッシャム、ルイッシャム通り、サンドフィールド・テラス4番地に生まれる。建築家、測量技師、非常勤発明家ヘンリー・ジョーンズ・ランチェスター(1834-1914)の八人兄弟の第4子。母親のオクタヴィア、旧姓ワード(1834-1916)は数学とラテン語の家庭教師。ランチェスターは知的な青春を過ごした。ホーヴのジョーンズ・テラス通り1番地に住み、近くのブライトンで全寮制予備校に通い、数学と科学に抜きんでた。1882年にハートレイ協会(後にサザムプトン大学に併合された)に入学し、ここで3年学び、科学校(現在の王立科学大学)と王立鉱山大学との併合大学への奨学給費生となった。バラーム・グローブ7番にある一族共有のロンドンホームに実験室を作り、1887年にはフィンスベリ−技術大学に学び、学問への拍車をかけた。ランチェスターの最初の発明は、物体の加速と減速を測定する装置で、後に車と軌道車に用いられた‘振り子式航空機加速計測計’であった。彼が‘放射状カーソル’を発明したのち、ある器具メーカーがこれに遅れて発明したものと同一であったため、日常的な研究に我慢ができなくなり学業を終えるのがめんどくさくなって退学した。このあとすぐその後に続く426件の特許申請の第一号となる申請が行われた。すなわち、設計図を描く人の助けとなる‘アイソメトログラフ’である。この特許は、ある製造業者がすぐ購入するところとなった。二十歳になり、公的な資格はなにも取得していなかったが、バーミンガムのフォワード・ガスエンジン会社に感銘を与え、副支配人の地位を与えられた。6ケ月も経たないうちに、エンジンスピードを制御する‘振り子調速機’を、その翌年には支配人兼デザイナーに昇進した後に‘ガスエンジンスターター’を発明した。いずれも画期的なものであった。かれの発想は次々と生まれ、1892年には世界初のエンジン−発電機・直結装置を設計し、作り上げた。さらにいくつかの成功を収めたあとに、1893年支配人から退いた。弟のジョージのために初めて仕事を譲ったわけである。1891年以降ランチェスターは空気より重い物体が空気中を飛ぶための理論を考え続け、航空発動機を開発するための資本を蓄えようとした。しかし、もしも彼の遠大な提案が広く宣伝されれば、これまで築いてきた名声は地に落ちるから止めたほうが良いと忠告された。このため一時的に計画を放棄せざるをえなかった。そのかわり、動力運搬車のデザインに注目し、2馬力の単一シリンダーによる高速回転縦型エンジンの設計・作成を手掛けた。1893年および1894年には、バーミンガムに近いオルトンの聖バーナード通りフェアヴューにあった庭で、平底の小型蒸気船を作りエンジンを搭載する本体とし、これの船尾につける外輪水かきの動力とした。これが1894年に進水され、全てのパーツがイギリス製である最初のモーター・ボートとなった。このエンジンの成功は1気筒自動車の製作を導いた。時々弟のジョージやフランクにてつだってもらい、自らデザインしたものに着装し、連結シャフトならぬ直結後部シャフトを取り入れた。つまり、近代自動ギアボックスの原型となった周転円ギアと直結トップギア比をもつものが生まれた。空気入りタイヤを着装した最初の自動車でもあった。完成したのは1895年の終わりであ。全ての部分が英国製の4輪ガソリン車として最初に生まれたのは、バーミンガムのソルタリーにあった彼の工場であった。この車はさらに改良を重ね、他の2種の実験車(その一つは1899年に‘デザインと機能の優秀性’により金メダルを受賞)とともに3兄弟をして189911月にランチェスター・エンジン社を立ち上げさせた。支配人たちはフレデリックを総支配人、兼工場主任、兼デザイン主任にした。ランチェスターはバーミンガムのハグリー通り53番に転居した。その後20年をここで過ごす。彼らが生産する自動車工場からすぐ近くである。先行したこれまでの車と同様、振動の少ない静かなエンジン、静かなギアー、力強いブレーキは同時代の車の質をはるかに超えるものであった。一般車向けに開発した特性としては、車輪と同調する車軸、ローラーベアリング、ターボ・チャージング、4輪ブレーキ、4輪駆動、大量生産に好適するパーツの相互互換性などがある。しかし、指導者たちは製品と達成された販売レベルにサーヴィスをするために十分な資本を用意することを拒否した。このため、会社は1904年には財産管理を受けることとなった。会社を再編し、ランチェスター自動車会社として再建され、25万ポンドという大資本を持つようになった。しかしランチェスターは配下の指導者たちにより演じられる道化芝居にますます幻惑されるようになり、1910年には殆どの責任ある地位を放棄し、パートタイムの相談役兼技術顧問へと退いた。1914年にはこの立場も放棄した。それでも彼のデザイン・コンセプトは維持され、一般車や第一次世界大戦での軍用車に生かされた。1909年にランチェスターはダイムラー自動車に相談役兼技術顧問としての職を得る。この会社のために行った仕事と、その直後からその後の20年間にわたり関与することとなる親会社のバーミンガム小火器のために行った仕事としては、世界的に有名な‘クランクシャフト・振動ダンパー’や‘同調バランサー’がある。いずれも今でも色々な形で利用されている技術である。彼の飛行機への関心は常に彼の頭から離れなかったものであるが、自動車のデザインへの関心を上回ることはなかった。彼がバーミンガム博物誌と哲学学会へ投稿した1894年の論文の表題は、「鳥が高く飛翔することと機械的に飛翔することの可能性」であり、また、はるかに視覚的に扱った飛行機の翼に働く「上昇の渦巻き」論であった。この論文は改定され、3年後には物理学会に投稿された。しかしこれは受理されなかった。この難解な論文は、当時の学会の著名な科学者たちにも理解されずに栓を開けられずに放置され、彼が1907年に出版した航空力学、1908年に出版した飛行安定力学を待って初めて話題となった。その後世界的に賞賛され、飛行機の設計者が必ず言及する参考文献となった。後にフランス語とドイツ語に翻訳された。この頃彼は多様な国々で飛行の開拓者たちと会い、意見交換をするようになった。しかし、ライト兄弟の試行錯誤的な実験はランチェスターにとってはのろわれるべきものであった。彼自身の仕事はしっかりとした計算と理論に支えられたものであったからである。              1909年からの2ケ年において、ホワイト&トンプソン飛行機会社の顧問として、ランチェスターはかれらの複葉飛行機に多くの改良をほどこした。例えば鉄製のパイプ支柱に布を三角形に張った翼をやめ、アルミナを張った翼を用いたりした。かれがこの会社を辞めたのは1909年から政府の飛行術委員会の顧問メンバーとしての責任が重くなり、仕事と両立しがたくなったと感じたためである。彼は戦時における飛行機の貢献は最も大事なものになることを予想しており、伝統的な戦法を信じている軍司令部を残念がらせた。彼は彼の意見を‘戦争における飛行機:第四の武器の夜明け(1916)’という著作で公表した。この本には彼の‘N2乗の法則’と名付けられた戦略研究も記載されており、その複写は英国とアメリカの軍指揮官に送付された。彼の疲れを知らぬ仕事は後に彼の兄弟のセリフ、「第一次世界大戦で英国航空機が見せた急速な機能向上は、彼のエネルギーと予見の力によるところが大きい」という評価を生んだ(クラーク、ランチェスターの遺産、1.162)。彼が国により表彰されることはなかったのは、多分多くの重要な人々が、彼のぶっきらぼうで率直な態度に当惑したためであろう。彼は他の専門家たちの思索が遅すぎることにいらだちを覚え、特に早く進歩して国が有利になるようにという愛国的思いから、そつなく口を慎むということがなかった。例えば、ランチェスターは高貴な空軍局のお偉方について「工兵隊の指導者が長々と演説をするから、ひどい時間の無駄がおこなわれている。それぞれの設計者があんな具合にながながとしゃべれば、次のクリスマスまで仕事が着手されることはないだろう(クラーク、ランチェスターの遺産、1.161)」と評した。1919年にランチェスターはドロセアと結婚した。ウインダーミーアの近くのフィールド・ブルートンにある聖ピーター教会の牧師トーマス・クーパーの娘である。子供には恵まれなかった。              ランチェスターは戦後は徐々に参事会から遠ざかった。1924年にはバーミンガムに舞い戻った。建築家の弟による家屋の設計が気に入らず、典型的に独創的なやり方で自ら彼の家を設計した。その家はモズリーのオクスフォード通りに適切に建てられ、ディオット・エンドと命名された。この家で多くの会社、例えばランチェスター、オルスリー、ベアードモーアそして後には記録破りの車、ブルーバードの会社、サー・メルコム・キャンベルなどの顧問としての仕事が行われた。              ランチェスターは1925年に新しい会社、有限会社ランチェスター実験所を設立し、多くのものの開発、中でも石油−電気変換システム、広域ワイアレス、録音装置の開発促進に努めた。              しかし、ランチェスターの事務的才能は開発心ほどには鋭くなく、このことが他人への強い誠実さと信頼とあいまって彼の晩年を貧乏なものとした。車、本、衣類を購入できず、自分の家の抵当権は慈善事業に引き渡された。この種のことはこの誇り高い男には耐えられなかったことであろう。視力を失い、パーキンソン病にかかりながら、知力は相変わらず優れたものであった。1930年代と1940年代にも多くの発明を行い、論文を書いた。それらは、音階、自動かじ取り手押し一輪車、視力、車体支持装置、政治学、そしてポール・ネザートン・ハリースのペン・ネームで著した詩やリメリック(5行俗謡)についてである。              ランチェスターはがっちりした体格の男で、体重約15ストーン(95kg)身長約6フィート(180cm)であった。常に最初の原則から得る信念どおりに行動し、流行の要素をとりいれれば論理的進歩をもたらさないとの信念から、デザインから流行を排除した(インタヴュー、オートカー1938325日)。彼は先見の明がある天才として尊敬された。興味の幅が広いため、多様な学会や機関へ60編以上の論文を書いた。彼は国の名誉ある人々のリストの一人としてhさ表記れていないことを悲しんだが、生涯にわたり種々の学会から表彰された。1919年にはバーミンガム大学から名誉法学博士の称号を与えられた。その他の栄誉・表彰としては、1922年英国学士院会員、1945年機械工業学会ジェームズ・ワット国際勲章、1941年土木技師学会エヴィング金賞、1910年自動車工学会長職、1926年王立飛行協会金賞、1931年米国グーゲンハイム金賞、海洋建築学会準会員などである。2度の発作の後、194638日自宅で逝去した。遺骨はサセックス、ヘイワード・ヒースの近く、リンフィールドにある両親の墓の中に埋葬されている。                C.S.クラーク記文献一覧

翻訳者:元東京大学併任教授 渡邉 巌氏

  

ウェストミンスター寺院を訪問し、

「1868年ロンドンで生まれたフレデリック・ウイィリアム・ランチェスターを調べている」

といったら、一般には公開されていない図書室に案内されコピーしてもらった資料の翻訳です